夏目漱石「こころ」の海外アマゾン評価レビューの和訳






こころ (新潮文庫)
夏目 漱石
新潮社


ほとんどの高校の教科書に載っている明治の文豪、夏目漱石の小説(アメリカは高校でグレートギャッツビーを読まされるそうです。記事はこちら)。日本の心は、海外にも伝わったのでしょうか。

以下ネタバレが含まれますので、ご注意下さい。 現時点で、米アマゾンは総52レビューで星平均4.2で、英アマゾンは総19レビューで星平均4.6です。

132人中、126人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★★★★「友情の闇、犠牲者の影」(マサチューセッツ州)
古典的な西洋小説は、主に描かれる内容と行動に集中する(このルールには多くの例外があるが)。しかし日本の小説はしばし話の内容は二の次で、まずは人の感情に焦点を当てる。夏目漱石の小説はこの構成の仕方によく合っているし、「こころ」がそのよい例である('kokoro'は、 "心"や "感情"を意味する)

この本は三部に分かれている。第一部は語り手である「私」と先生(外部との接触をほとんど持とうとしない孤独な知識人)との関係を掘り下げていく。彼は一貫して人生に失敗てきたことを、世間知らずな「私」(学生であり、先生とカルロス・カスタネダの「ドンファンの教え」的な一時的な関係を結ぶ)に説く。第二部は「私」の両親との関係を描き、第三部は最も長く、自分の生い立ちについて書かれた、青年の語り手に向けて宛てられた先生の遺書であり、先生とお嬢さん、そしてKという男子学生の周辺を描いている。

ドン・ファンの教え (新装版)



いわゆるプロットのようなものは無い。著者は登場人物の行動よりもその考えに専心する。漱石の手腕は人物造形において発揮され、読者を魅了する。フロイト的精神分析も濡れ場もスリルもなく、決して説明されない部分もある。例えばなぜ語り手は始めから先生が好きなのか。だが小説の終わり頃に、読者は語り手や先生や不幸なKたちが心に宿るようになる。彼らの動機や感情を理解し、全世界の偉大な文学作品と同様、人間の幸せや人生の多様さを学ぶ。

「こころ」において、漱石は人の友情関係の様々な闇について描き、本物の友人を持つことは出来るのかと問うているのかも知れない。当然その結論はこうだ。我々はみな孤独じゃないのか? 友情や恋愛ごっこなどでは、根本的な孤独感を誤魔化せないのでは? 何かと人は犠牲について口にするが、たびたび犠牲になるのは彼ら自身ではなく、他人だ。自分の身が一番可愛いのだ。

これは普遍的なテーマであり、だから「こころ」は再読しても面白い。日本文学のよい入門書をお探しなら、これを選べば間違いない。完成されているし、考えさせられるし、文章も巧みだ。

コメ(ベトナム)
アジア人として直感的に、語り手が先生に惹かれたのかが理解できます。先生はより歳を重ねてきて、人生の酸いも甘いも噛み分けてきたはずです。知的で控えめな雰囲気を醸したりして。それに先生は彼と同じく孤独で、人生をどう生きるべきか、その手がかりも掴めていない。よって彼にとって先生との知的な会話が興味深いのはごく自然で、すくなくとも日本人にとっては腑に落ちるのです。



55人中、51人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★★★★★「愛と忠誠と喪失」(シアトル)
これらは全て日本の芸術で見受けられるテーマである。彼らにとってkokoroは故郷である。kokoroは、心臓、魂、精神と訳される。この本はこのタイトルを正当に表している。この薄い本の中身は、精神性や、青春や時代、男と女、古代と近代などについての告白である。愛とは何か? 友情とは? 責任とは?

文章はゆっくりと進み繊細で、正確で無駄なく考えや言葉を紡ぎだす。翻訳は見事で、言葉に説得力と信憑性を与えている。その思想はごく自然に理解でき、解説もほぼ必要としない。わずかな文化的注釈(重大な乃木大将の殉死についてなど)が付記されていて、物語の深い解釈の手助けになる。

先生と彼の妻、青年とその家族のシンプルな話は、彼らの織り重なる感情を中心に展開される。

全般的にとても日本の風味が味わえる本であるが、国境を越えて、内面の生である我々のkokoroにも届いてくる。


36人中、34人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★★★★★「日本の曖昧な心」(日本)
殆どの日本人は小説「こころ」を読んでいます。主に高校の国語の授業で。日本の教科書にこの「こころ」が収録されています。殆どの学生はこれを読んで、私たちの偉大な作家も当時いかに悩んでいたのかを知ります。それに漱石は明治期に活躍した文豪の一人です。彼は英文学教授から作家に転身しました。明治時代に私たち日本人は、独特な生活様式を変えようと西欧文化を取り込もうとしました。だから漱石のようなエリート層は、突然入り込んできた西洋文化と伝統的日本文化の間で苦しんだのです。

殆どの漱石の作品は小説として「未完成」です。「こころ」も完成してはいない。この小説はとても曖昧で、おぼろげでぼんやりとしたものと言えるかも知れない。漱石はこの小説で、複雑で不可解であっても、繊細で慎重であり、深くてひたむきなテーマを提示しています。この「こころ」は小説としては不格好だと思いますが、私たちの人生すべてにおいても、いつも完全にやり遂げることなんてことは稀でしょう? 漱石の作品は私たちにとって本当に貴重な財産なのです。



「こころ」の未完成の件についてはウィキペディアをご参考に。

32人中、32人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★★★★★「心の繊細でキケンな考察」(オーストラリア)
西洋の読者にとって、この小説を意義深いものにしているのは(文学的に優れていること以外で)、日本人の明確な視点である。この新鮮な物事の捉え方は、無数の厄介な(解答不能の)問題を提起する。例えば、「体面」を重んじる日本的感覚とその人間性によって、先生が過去に犯した己の過ちを全くもって許せないことなどを。

kokoroとは「物事の核心」と訳される。上品であり繊細な、人生の謎を探求するにふさわしい完璧なタイトルである。



かなりきつい意見もあります。

39人中、21人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★「あまりの過大評価」(セントルイス)
これを読んだ後、また再読して、日本文学コースで何時間も議論やレクチャーを重ねてきたが、正直に言ってこの本は今まで読んだ中で、最も過大評価されている本の一冊だと言おう。

「こころ」は技術的に貧弱だ。小説には主に起承転結があるが、この本は起と結だけしかない。物語の登場人物の死は、明らかに読者の感情的反応を誘うために意図されたものだ。漱石はどの登場人物も興味深くしようとし、登場人物の死に際しても同情以上のものを感じさせようとしたが上手くいっていない。漱石は、まるで読者が登場人物たちのことを猛烈に好きになっていると思い込んでいる節がある(これはどんな作家にとっても馬鹿げた思い込みでしかない)。日本が産み出した文豪の一人と思われていることはさらに有害である。

この小説の大部分はなんら関係もないことの描写に費やされる。漱石はお詫びに自分の詩的文才の腕をふるうが、それ以外の目的はない。10ページ読むごとに、つまり何が言いたいのかと常に自問せざるをえない。そうせざるを得ないのは、まさに伏線以外のものがばらまかれているからだ。

A Separate Peace



この本の先行きも極めて予想通りだ。実際に「A Separate Peace」を読んだことがある人なら、本の後半で何が起こるのか分かるだろう。予想しやすい出来事と感情面での機能障害のせいで、醸し出せたかもしれないペーソスのようなものが損なわれている。事実そのような予測可能な側面は、不運がさし迫ってくるにつれて必然的に感情の高まりを喚起するが、我々にはその人となりを知り、理解できる登場人物が必要だ。その様な人物がいなければ、読み終わった後には疑問だけが残るだろう。

この本は人間関係の性質について、わずかだが興味深い事柄を述べているが、エッセイとして書いたほうがその主張も明確に伝わる。不器用で陳腐、全く意外性のないストーリーは無価値で邪魔である。

夏目漱石は幾つか価値ある作品を書いた。私の好きな「吾輩は猫である」もそうだが、「こころ」は彼の優れた取り組みとは言えない。この進行の遅い、ありきたりで酷く陳腐な本を一気に飛び越える小説もたくさん日本から出てきているのを思えば、日本の文豪の一人という評価こそが人の判断を見誤らせているのだ。
コノ ホン ガ ヤハリ ダメ デ アル。


45人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★「キモッ
僕は世界文明のクラスでこの本を読まなければいけなかった。この本は無価値な試みであり、どの授業でも使用すべきでない。第一部の半分は必要ないし、第二部は演出効果的に削るべきだ。伏線は理にかなっているが、その半分以上は無意味だ。登場人物の"K"もいくつか問題がある。

なんで自分でこんなものを書いているのか分からない。多分こんな退屈な本を読まされて腹が立っているからだろう。僕と同じ目にあっている他の人が不憫でならない。この内容とテーマはエッセイや短編にすべきものだ。それなら何も失われず、誰の時間も無駄にすることはなかっただろう。退屈退屈退屈、誰もこの本を買わないで、代わりに壁を眺めよう。その方がずっ~とマシだ!!!


64人中、4人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★「別の批判的検討が必要だ」(アメリカ合衆国)
なんたる世間知らずたち。この本でそうじゃないのは奥さんだけ。「私」と先生は彼女をただの無学な女性と見なしているし、先生を敬う以外は何か目的を持って考えたり、行動したりできないタイプと思っている。なんてムカツクやつなんだ! 語り手もそうだ!


57人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★「なぜ?」(ノースウェスト・ミズーリ州立大学)
僕は古典的アメリカ文学を大量に読んでる大学生で、「こころ」を読む授業があった。ちょっと興味はあったが、始めの50ページで人生をかなり無駄にしてるように感じて、友だちに頼んで数ページ読んでもらった。で、もう読む必要もないだろう。僕はこの本に4日費やし、本屋で売ろうとしたら3ドルぽっちだし、燃やそうと思う。僕みたいに誰にも我慢して欲しくない。

コメ(ミシガン湖近く)
そんな小説を読ませるようなクラスを取るより、TVに齧り付いてたほうがいいんじゃないかな。そうすれば決してイラつかないし、我慢も面倒もないからね。



15人中、6人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
・★★「不安とアノミー
私はアメリカの大学生で親友からこの本を勧められて読みました。文体は簡潔で分かりやすいし、基本的にプロットはありません。私は殆ど何も起こらない哲学小説が好きですが、少なくとも興味深い考えや面白い登場人物があってほしい。主人公と先生は性差別主義者で古臭く、全く無能で愚鈍です。

この本は孤独や罪、人生の無意味さについてとても詳しく論じています。ほとんど誰もがこの考えに気づいていて、いまさら登場人物たちに退屈に説明される必要はないでしょう。彼らの周りの社会が変化しているので、彼らは道を見失って悲惨に思えます。現代と伝統の間の葛藤が漠然と述べられていて、これが登場人物たちの陰鬱さの原因であるなら、それは私も既に知っている単純な概念で、アノミーです。

さらに女性や個人主義的である人は誰でも、常に語り手に貶され非難されます。本全体で最も興味深い部分は、リベラルで議論好きな人々はトラブルしか引き起こさないと主人公が主張するところと、常に男と女は互いにひかれあい、女は男より必ず劣っているところです。

要するに、この本は人生はあっという間で目的のないもので、人は本当に互いを信頼できず助けることもなく、女性は愚かであると主張します。私は個人主義者で、数人の親しい友人を持つ理想主義者の若い女性であるため、あらゆる点で猛抗議致します。

コメ
君のレビューを読んで社会学・哲学用語を熟知しているとお見受けしますが、このテキストを理解するには歴史を学んだほうが、ずっと価値があるかもしれませんよ。実際いかなる評価も個人の自由ですが、これが書かれた1914年当時には存在しなかった価値観や道徳観、そして世界的に拡散した教養あるお言葉などを使用してこの小説を批判することはアンフェアなのでは。それらの概念は日本の道徳観の一部ではないし、漱石が書いた当時のあなたの祖国でさえ、それらは一般的ではなかった。

次の点を考慮して下さい:仮に君の意見が正しいとして、文化的な相違を考慮せず、歴史上のある時代を現代の価値観で判断するとします。次の世代も自分たちの価値観で君を判断するだろうから、その場合、君の言葉や考えや信条には一体何の意味があり、次の世代に渡すものって何なのでしょうか? 君は過去の産物だからって、彼らに自分やその価値観を無碍にしてほしいだろうか? 君は彼らに自分の考えを一般論で片付けてほしいだろうか? 殆どの人はちゃんと中身を理解してもらい、その後に判断を下してほしいと思うだろう。

つまり私には、理想家で個人主義者で友情を育む女性として、「私」か先生のいずれかの立場に君自身を当てはめて、アノミー(死を望む気持ち、または信頼の欠如感)が「現代」社会を理解する上で有効だと判断しているように見える。作品はいろんな理由でひどい作品にもなりえるが、憶測からではない。君の価値観に反するからといって全作品をゴミ山に投げ捨てる前に、文脈を理解して本を読みなさい。



このコメントが上記の批判の回答になるかと思います。現代の知識や価値観で判断しても、それは結局、後出しジャンケンでしかありませんし、先入観や偏見では人や物事を正確には理解できません。

最後に私の好きな漱石の講演(私の個人主義)での言葉で締めたいと思います。

何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払はらっても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰ぶすまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。



以上です、ではまた。


私の個人主義 (講談社学術文庫 271)
夏目 漱石
講談社
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